2022.04.18
AV女優になりたいと考えているなら、AV業界やそれに関連する知識を持っていても損はないでしょう。
AVと馴染みが深いジャンルとして、遊郭があります。
その中でも有名なものの1つに、京島原があります。
京島原は、どのような歴史をたどったのでしょうか?
かつての京島原と、現在の様子を紹介します。
皆さんは、遊郭といったらどこを思い浮かべるでしょうか?
おそらく、ほとんどの人は吉原遊郭と答えるでしょう。
そして、それ以外の遊郭は知らないという人も多いかと思います。
しかし、実は遊郭というのは全国各地にあったのです。
そして、その中でも最古の遊郭といわれているのが、京都にあった島原遊郭です。
京島原と呼ばれていて、室町時代が発祥とされています。
京島原は、元々室町幕府が許可した傾城町であり、日本の公娼地の始まりといわれているのです。
現在の東洞院通七条下ルに位置していて、桃山時代には二条万里小路に二条柳町が開設されました。
江戸時代には、六条付近に移転されて六条三筋町と呼ばれています。
その後、朱雀野付近へと移転することを命じられて、島原と呼ばれるようになりました。
何故島原と呼ばれたのかは、諸説あります。
出入り口として東の大門があり、周囲は壁や堀で囲まれていました。
最も栄えていたのは元禄期でしたが、その後は格式の高さや立地条件の悪さなどで客が他の場所へと流れていき、何度かの盛衰を繰り返しながら少しずつ廃れていきました。
遊郭といえば閉ざされた場所というイメージがありますが、この京島原では廓の女性も通行手形があれば自由に外へと出ることができました。
また、一般人も男女問わずに出入りが自由だったので、母親を揚屋で遊ばせて親孝行をするという人もいました。
1851年に、京島原のほとんどは大火によって焼失してしまったときは祇園新地で仮営業をしていたものの、ほとんどは京島原に戻ることがなかったため遊郭はさびれてしまいました。
明治になると常連客もいなくなり、太夫道中などの行事を支えとしていました。
昭和初期には娼妓本位の花街として古色を残すものの、かなり寂しい状態となってしまいます。
昭和後期には、とうとうお茶屋組合が解散してしまい普通の住宅地となりました。
建物もほとんどが取り壊されてしまい、現在は島原大門、輪違屋、角屋がかつての面影を残すばかりとなっています。
日本最古の花街といわれた京島原は、現在どのような街になっているのでしょうか?
かつて遊郭があった場所の中には、現在風俗街となっているところも少なくありません。
京島原も、そのような場所になっているのでしょうか。
京島原の入り口である島原大門は、何度か建て直されています。
現在の大門は幕末の慶応3年に建てられたもので、本瓦葺、切妻屋根を乗せた重厚な趣の造りとなっています。
その先には、花街や遊郭の入り口には必ずと言っていいほどあったといわれる、通称見返り柳といわれる柳が植えられています。
かつて遊郭を訪れた人が、帰る際に名残惜しくてこのあたりで振り向くことが多かったことから、そう呼ばれています。
その先は石畳となっていて、ところどころに俳句、あるいは歌が記されている文芸碑もあって京都らしい雰囲気があります。
かつて、そこにはおよそ20軒の揚屋、約50軒の置屋があったとされています。
その置屋のうち、残されているのは輪違屋1件だけです。
ここは現在お茶屋となっていますが、創業は元禄年間で明治以降には揚屋も兼業するようになり、今も数名の島原太夫が在籍しています。
建物も基調で、京都市の有形文化財に指定されています。
かつては3階建てだったのですが、昭和36年に台風で屋根が飛んでしまい、2階建てへと建て直されています。
また、同じく島原にある角屋は、日本で唯一現存している揚屋建築の遺構であり重要文化財に指定されています。
外見は、格子が延々と並んでいる大きな建物です。
建物のうち古い部分は1641年ごろの建築とみられていますが、それ以外の部分は1787年までの間に増改築を繰り返していた部分です。
昭和60年までは宴会業務を行っていましたが、現在は廃止して「角屋もてなしの文化美術館」として揚屋建築とゆかりのある文化財を公開しています。
現在は、女性から性的サービスを受けられるお店はありません。
輪違屋も、太夫を抱えていますがお座敷遊びのみとなっています。
また、以前はオンラインお座敷遊びなどの企画も行っていました。
日本にあった過去の風俗を知ることで、AV女優としての仕事の幅も広がります。
AV女優を目指すのであれば、知っておいたほうがいいでしょう。
かつての花街であり、現在はほとんど残っていない京島原でも、いくつかの施設は残されていて太夫もいます。
京都を訪れることがあれば、立ち寄って過去の情景に思いをはせてみてもいいのではないでしょうか。